カテゴリ:俺用メモ( 12 )


昨日ですか。

昨日は久しぶりに、実に一ヶ月ぶりの自転車でした。

同時に、あらかじめ決められていたうち、最後の登校日でもあったわけで。

親も出席するというので、便乗しても良かったんだが、

中学の時に筋肉痛がひどかった一日と修学旅行の時を除いて、

全ての日程を自転車で登下校していたことを考えると、自転車で登校するべきだと思ったわけだ。

一月放置すると、チェーンも錆びてしまっていた。

錆びる、の「錆」という字は、金へんに清いと書く。

もともと中国で使われている時点では、金属光沢の美しい金属を表す文字だったそうだが、

日本に輸入され、誤用されてしまったという。

この上の3行が、昨日起こった事象とは何ら関係はないわけだが、生憎の雨だった。

この日の雨は、何故か不快ではなかった。

中学に入学すると同時に購入した雨合羽。

ズボンのゴムは一部において、既にその姿を露わにしている。

6年間、雨の日はほとんどこれを来て通学した。

今回で役目を終え、来年度には新調する予定でいる。

雨はさほど強くなかった。

自転車を漕ぎ出すが、油が硬い。

まともになるならオーバーホールが必要か。

それに、自転車に乗るのが下手になったことを感じた。

築き上げた技術も、すぐには戻らなかった。

学校へ着く頃には、雨水が靴へと浸透している。

久しぶりの感覚。

学校のある丘を駆け上がるが、雨のため誰もいない。

いつもは、ここで誰かを抜くことで、定刻に間に合うことを確信していた。

辿り着いた自転車置き場は、思いの外自転車が置いてあった。

いつものように教室へと向かうが、別に変わったこともなく、席に着いた。

靴下を履き替えてしばらくすると担任がやってきて、HRを始める。

名前呼ばれたら返事してねっ、て。

リハーサルは無いんですね。わかります。

会場の体育館へ向かうが、その前に靴に履き替えるんだとか。

ちょ、おま、靴濡れt

1時間ほど、靴下がしっとりの状態で長い話を聞き流す。

せっかくの式だが、何の感動もないのは残念だ。

周りを見ても、泣いている人は見あたらなかった。

その程度か。



予め定めてあったイベントを全て消化し、帰路についたのは午後8時45分だった。

特別なイベントもなく、一日を終えた。

高校時代に対する未練がないのは、後悔をしないように生きてきたせいだろうか。



中学時代のある時、後悔をしないと決めた。

そのとき、特に何か外的なものがあったわけではないが、

自分の中での哲学がまとまった。

後悔先に立たずというが、多くの人々は後悔をする。

このことをしばらく考えていた時期があって

(実世界の事件と時間的関連がないのでいつ頃だったか知る由もない)、

達した結論が、自分を信頼することだった。

過去の自分を信頼することで、悔いる理由が無くなる。

過去の自分が最善と判断したことに文句は言わない。

選んだ方法よりも適したものが見つかったとしても、悔いない。

そして、その経験を、将来悔いないために応用する。

おかげで、ここしばらくは後悔などというものをしていない。

もっと勉強しておけば良かった、とは世の社会人の大半が思うことであり、

じぶんも勉強しておけば良かったとは思うが、

当時の自分はその理由を知り切れていなかった。

そして、それに耐えうる精神力も持ち合わせていなかった。

一見、言い訳じみているが、これは正当化ではなく、

当時の自分にはできなかったことを明らかにして、正当であることを示すもの。

結果的に間違っていた部分があることも同時に示すが、

更に、将来的に同様の間違いを軽減するために経験として蓄積される。



本題と少しずれてきたが、過去の事は、過去の自分に全て任せてあり、

今の自分が深く考える必要は既にない。

そういう思考が無意識のうちにできあがっているのかと思う。

良いか悪いかは別として、自分の思考過程の発展を感じた。








でさ、さっき気付いたんだけどさ、ヘッダの部分に書いてあるここのアドレス、

リンクを解除するために、自動で記述されてたのを手動で書き直したてたんだけどさ、

アドレス間違ってたんだぜ。

arashimata.exが正しいんだけど、arashima.exになっててさ。

気付いてたんなら教えてくれても良かったのに。

いじわるだなぁ。
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by arashimata | 2010-03-02 18:03 | 俺用メモ

save the future

ってのを昨日今日NHKでやってたので、「日本の、これから」を見つついろいろ考えてました。

kwsk
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by arashimata | 2009-06-21 16:42 | 俺用メモ

一見様おとこわり

うがいぐすり を並び替えると うぐいすがり になるんですね。

さっき洗面所に置いてあった箱を見て思いました。



一見様お断りという言葉がありますよね。

誰かの紹介がないと来ちゃ駄目よ、って奴。

この世の中ってある意味ほとんどがそれじゃないかなって思うんですよ。

何かある行動をしようとしたときに、その行動に関して初心者だった場合、

誰かに指導や補助をして貰わないと用を足すことができないなんて事ありますよね。

たとえば、お買い物。

コンビニに入ったとしよう。

右側には、なにやら台で仕切られて所に係の人が立っていて、笑顔で挨拶をしてくれる。

左側には、ものをたくさん置いてある棚がある。

もしあなたが売買の仕組みを知らない文化地域の人だったとしたら、

棚のものを触って良いのか、係の人に言わなければいけないのか、

どうすれば欲しいものを自分のものにできるのか、どこにも書いてありません。

どうしますか。

いや、まぁどうにもできないんですけどね。

これに近いことは経験したこと無いですかね?

趣味しても然り。

何か新しい趣味を始めたとして、知識もなく、手探り状態。

うっかりその趣味のとあるコミュニティサークルで発言してみると、ハァ?状態。

ググっても見つかりましぇーん。

そんなときはどうすれば良いんですかね。

習うより慣れろ、恥を忍んでとりあえずやり始めてみるのも一つの手ですけど、

どうにかならないんですかね。

そんな人達のために何かできないかと思いませんか。

まぁ、すぐには何もできないんですけどね。

自分が第一人者としてそっちの方向を引っ張っていく存在ならば、

ある瞬間、全体から見たら少数かも知れないが、だれしもが最初は「一見さん」。

「一見さん」いらっしゃーい、と言える環境を提供したいなとか思いますね。
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by arashimata | 2009-05-09 22:35 | 俺用メモ

砂の城

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びっくりですよね。





ところで、

今日の化学の講義中にいろいろと考えてたんですよね。

有機物は高温に耐えられずに変質する事。



最近、太陽の活動に変化があったそうですね。

周期的に推移するらしい、太陽の活動規模が、下がったまま回復しないそうです。

地球に深刻な影響を与えるほどの変化はまだないようですが、

微量ながら光量が減り、気温が下がるかも知れないらしい。

そう考えると、地球が今の形をなしてから果てしない時間を経ているわけですが、

太陽と地球の、崩れそうで崩れないバランスの上で成り立つ関係。

ずっと均衡が保たれているんですよね。

均衡が保たれていることが前提となって、生命が誕生するわけですが、

その、”均衡”が崩れ始めたとき、多くの生命は環境の変化に耐えることができないだろう。

また、その”均衡”が恒久的なものではないのは自明。

人間が開発を急ぐ文明も、宇宙の長い歴史から見ると、

所詮は干潮の時に作った砂の城でしかないのだろう。

どんなに巧みな城を造っても、時が来ればいずれは全てが無に帰す。

なんのために生きるのか。

誰のために。

どうして。
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by arashimata | 2009-04-23 18:27 | 俺用メモ

青色が良いらしいですね。

なんでも、自殺防止に役立つそうです。

駅のホームなどに青色の照明灯を設置して、実際に減っているとかなんとか。

色彩心理的に言うと、青は冷静の色。

感情を冷静にさせるそうな。

某風刺漫画的に言えば、ゲッペルドンガーが出てくるみたいなもんでしょうね。

死にたいと思っても、冷静に考えれば死ぬべきではないと感じるのでしょう。

冷静になると死にたくなくなる→一過性の衝動に駆られる

わけですから、冷静に判断すれば死ぬべきでないと多くの人が解釈しているのでしょう。

それってどうなんですかね。

冷静に判断して死ぬべきでないと本当に感じるだろうか?

その場凌ぎの麻酔のようなものでしかない気がする。

死ぬ、とは生命の営みを絶つことであり、自殺とは自ら志願して死ぬことである。

自殺をしたいと願う理由は様々だろうが、自分の生活環境に居づらくなったとか、

生きる理由を見失ったとか、そのあたりがメインだろうと思う。

思い悩んだ末の決意のはずが、現場に来てやめるなら、最初から考えるなと言いたい。

死ぬつもりでアクションを起こしたなら、首尾一貫して死ぬべきではないか。

取り返しの付かない事象に関して軽率な判断をするべきではないと常々思う。

死ぬと決めたら死ね。

それだけは言っておきたい。

慎重と優柔不断を同義語だとすることはよくあるが、その最大の相違点はここにあると思う。

慎重は、結論に達した時点でそれを結論として認める、決断するが、

優柔不断は、結論が最終的な結論であるかどうかという結論自体が出ないまま決断するため、

少しの刺激でどちらにも転び、非常に危険である。

群集心理に関して以前書いたが、集団の中で意志を持たず、

風の赴くままに行動をしてきた場合、この性格に嵌りやすいのではないかと思う。

かといって、読んだ記事を鵜呑みしているのでは、世論に翻弄され続けることになる。

ひろゆきも言っているが、嘘を嘘と見抜けない人間はネットを使うな、

つまり自分の理論で文字を読めない人間は文字を読むべきでないとも解釈できる。

自殺する前に、身辺整理をすることは忘れてはいけませんよね。。。





青って、憂鬱の色でもあるんですよね。

どうでもいいけど。



pspdispのv0.2がいつの間にかリリースされてます。

今回のヴァージョンアップではいろいろと進化してます。

+0.1だと甘く見てたらびっくりですよ。

無線LANで表示できたり、縦横の回転ができたりと、良いらしいです。

まだインスコしてないので使ってないですけど、今後の更新に期待です。



話が変わって。

DAKARAのCMで、じ・えきすとらぶらざーず ってあるじゃないですか。

なんで天海さんなのかなーと思ってたんですけど、甘みってことなんですかね。

いらない3人は退出させて、天海だけ残る・・・。

今更ながら納得しました。。。
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by arashimata | 2009-01-30 20:41 | 俺用メモ

お買い物

売買とは、その仲介として金銭が行き来する。

「金」こそが現代を支配している。

金なくして現代日本で生きることはほぼ不可能にすらなっている。

何気なく使っている金だが、販売、製造側としては割と必死である。

そこで、俺は価値のある金銭の使い方を考えた。



評価されるべきものを評価し、評価されないべきものを評価しない。

価値あるものに利益を与え、価値なきものに利益を与えない。

つまり、評価するべき製品、サービスにはそれ相応の利益を与える。

その利益は次への資金源となる。



購入とは、一種の評価方法であり、

高くても価値があるなら買う。

安くても価値がないのなら買わない。

時には、求めていたものに最適であっても買わない。

買っても使い道がないのに、買う。

そう、商品の評価のためだけに。

いわば、個人的な不買運動のようなものだ。

出荷数とはその商品の人気度合いを示す一つの基準となる。

劣悪な商品を購入して、それが顧客のニーズに合っていると勘違いされては、

かえって面倒である。

促進するべきものと衰退させるものをきちんと区別する。

このことは、選挙に通じる点もある。

1人の力は小さくても、わずかながらあがいてみようと思う。

そう思って、最近はいろいろと考えながら買い物をしてみる。

最も解りやすい評価システムだとおもう。

あほらしいとは思うけど、なかなか楽しかったりする。





そういえば、民主党愛媛県連の事務所らしきものがJALシティーの隣にできてるね。
c0142254_1544797.jpg

いつになったら民主党のトップは変わるのかねぇ。

写真右がJALシティーです。

食い物やが潰れて、解体した後しばらく廃墟だったんだけど、

最近工事を始めて、何が出来るのかと思ってたら、一昨日民主党の看板が・・・。

あそこ、おいらの通学路なんですねー。
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by arashimata | 2008-10-05 15:07 | 俺用メモ

じ・えんどおぶさまー

夏も終盤です。

何故か昨日は更新するのを忘れてました。

ええ。仕様です。



お盆ですよね。

死者がこの世に戻って来るという。

ホントに戻るんですかね。

輪廻の考え方からすると、あっちの世界が本来の原点である気もするんですが。

お盆と称して地元に帰省した皆さんは大抵先祖のお墓参りしますよね。

それって、先祖は喜ぶんですかね。

「そこに私はいません」という有名なフレーズが思い浮かびますが、どうでしょう。

墓に「封印」されるならまだしも、風になって吹き抜けているなら墓じゃなくても良いじゃないですか。



日本って偶像崇拝主義ですよね。

本末転倒というか。

なんというか。



おいらはそもそも宗教が嫌いです。

他人が信仰する分には大いに結構なのですが、どうもそれには賛同できません。

宗教というのは、以前にも書いた気がしますが、基本的に作り話ですよね。

どこぞのだれかが、「世界の真理」を見つけたとかいって、それが伝染した結果ですよね。

なんで信じるんですかね。

「神」がどうした、「仏」が何だ。

本当に俺たちを見ているのか?

苦しいときの神頼みとはよく言うもので、

日本人の多くは普段の生活で宗教を信仰しているそぶりは見せません。

正月は神社へ参り、2月には聖バレンタインの命日にいちゃいちゃし、盆には仏を拝んで花を供え、

12月には聖キリストの誕生日と称して子どもに玩具などを買い与える。

楽しけりゃ何でも良いんですね。わかります。

しかし、おいらはそんな曖昧な生活を続ける日本の風習が嫌いなんです。

本当に嫌いです。

都合の良いことだけ取り入れて、都合の悪いことは排除する。

宗教なんて口実でしかない。

もちろん、外国では熱心に特定の宗教だけを崇拝していらっしゃる方々は大勢いる。

彼らは、本当に信念を貫いている。

本来宗教を信仰する人間のあるべき姿だろう。

それに引き替え、日本人は宗教を完全に信じないわけでもなく、信じているわけでもない。

何がしたいのかわからない。

意味も知らないまま念仏を唱え、自分の宗派が外と何が違うのかも知らない。

それでいいのか。

それで幸せなのか?

多くの宗教は、「正しいことをすれば天国に行ける」とか、

まぁそんな感じの釣りえさで信者を平和に導いてきましたよね。

それは宗教の持つ最大の利点だと思います。

俺から見れば、どう見てもクマーな釣りえさですが、平和になれるならそれでいいです。



そもそも。

地球上には宗教がいくつもありますが、本当にそれぞれの世界へ旅立つのでしょうか。

根本的な疑問があるわけです。

同じ人類に生まれながらも、次の世界を自分の意志で選びうるのはおかしくないですか。

理論主義となった現在でも宗教が存在し続けるのは、

信者が心の支えを必要としているからでしょう。

心の不安を取り除き、思いこみによって安心する。

考えれば考えるほどに群集心理である。

かつて記事として書いたはずだが、俺は「群集心理」に打ち勝とうと、

日々人間の行動をこっそり観察してきた。

みんながいるから安心できる。

ひとりだから不安になる。

その差を0にすることはできなくとも、限りなく無くすことで群集心理を消そうとしてきた。

そのためにトレンドに逆らうというのも、常駐読者には周知の通りである。

宗教にもそれはあると思う。

みんなが信じてるから、きっと正しい。

もし間違ってても、みんないっしょだから怖くない。

「僕は怖いんです」と言ってるようなものでもある。

弱い人間、いや、自分たち人間が弱いと言うことを自ら証明しているようなものだ。

それだけではない。

「ただなんとなく」宗教に属している信者達も、その宗教が良しとする「真理」の正当性を、

自らの考えで判断するべきである。

流れに身を任せるだけでなら、賢明な判断と言うことはできない。

ただ単に時間が過ぎていくのを待つだけの人生となるだろう。

宗教に関してしばらく考えて自分なりに正しいと思う判断を下したことがあるだろうか。

それは他人に依存しない、自分の判断。

群集にまぎれない、単独として、一個人としての結論を。
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by arashimata | 2008-08-16 15:55 | 俺用メモ

諸々考える。

今日、夢に死人が出てきたんだけど、まずいかな。

春に死んだ彼です。

夢の中ではピンピンしてましたわ。

久々に話ができてうれしかったですね。



あ、迎えに来られても困りますよ。まだやることは多いし。



さて、今日から8月です。

昨日回収したデータを打ち出す作業も進まず、漫画読んでます。

単純作業は苦手ですね。やはり。



昨日撮った写真を見てて思ったんですが、やけに傾いてますね。

コンデジって言うのは液晶画面を見ながら撮影するわけですが、そうすると安定しないんですよね。

電柱とか、完全に垂直なものを基準にしますが、レンズを通る限り歪みますし、

手動補正はけっこう難しい。

素人の傾く原因は、まず手持ちの時点で傾いている場合と、

シャッターを押す瞬間に片側が沈み込むときとがあるんです。

おいらの場合は、自転車漕ぎながら片手で撮影してることもあるので手が震えるんですね。

※よい子は真似しないでください。

自転車漕ぎながらって言うのもまたコンデジの特徴ではあるんですがね。

上の方で、コンデジの液晶画面を見ながら―と書いたんですが、長年使ってきたおいらは

被写体を直接見てレンズを向けてるときとかあるんです。

カメラに写る枠がだいたい体にしみこんでるので、枠ぎりぎりに撮らないときとかは、

カメラ本体の傾きを修正しながら撮影する。

流し撮りするときはものすごく楽です。

液晶画面に遠近感はないですから、

体を被写体に向けて追いかけながらAFを酷使して撮影するとうまくいきます。

ま、全ては「慣れ」があってうまくいくわけですが。



話、全く変わります。

学習は模倣から始まるとよく言われます。

でも、現実では模倣なんかじゃなくて自分で考えられる力ばかりを鍛えられたりするんですよ。

模倣が本当に大事なのか?

間違いなく大事だろう。

数学を例に取ればいい。

1+1が2になることは「決めた」こと。

これは模倣とかじゃなくて前提であって、そこに理解も糞もない。

しかし、2×2が4になることは「考えられた」こと。

足し算を応用してかけ算を作り、画期的な進歩を果たした。

「考える」とは応用の固まりなんですよ。

基礎の模倣無くしてその先の応用なんてあり得ない。

しかし、原始人が基礎だけ学んでCPUの設計まで辿り着けるかというと、そうではない。

応用も途中までは模倣であるべきである。

荒れ果てた登山道を太陽の位置を見ながら進むよりも、

行けるところまで高速道路を通った方がよい。

なぜなら、そうしなければ最先端に追いつくまでに命が尽きてしまうからだ。

古代は数字の最先端に辿り着くまでにそう時間はかからなかったかも知れない。

しかし、現代で最先端を更に伸ばすには、大学を出てもまだ勉強が必要である。

応用も、その上に何かがあるならそれもまた基礎となる。

模倣の繰り返しで人類は技術をつないできた。

模倣こそが「基礎」なのである。

最近社会的に(にちゃん的に)問題視されつつある「ゆとり世代」。

彼らは決して学力というベクトルでの力は落ちていない。

「模倣」に関しては申し分ないだろう。

問題なのは、「応用力」。

教科書しか読んでいない、ゲーム機の液晶しか見ていない。

定められた範囲から誰もが逸脱できていないのである。

プログラマーによって仕組まれたシステムによって一喜一憂し、

自然科学から見れば果てしなく薄いその内容に満足する。

「応用」なんてできるわけがない。

したことがないんだから。

自然科学には法則があふれている。

人間の切りひらいた工業分野でも良い。

コンクリートの中で一日を過ごすゆとり世代は応用できる「法則」を見つけられない。

液晶の中では行動が制限され、ボスキャラからは逃げられない。

死んだら神父の前にいる。

ソフトを変えれば、もう別世界。

そもそも世界が違うんだから、法則が成り立つわけがない。

しかし、現実世界では全てにおいて法則は一致する。

幽霊以外は全て論文で処理できる。

数え切れない論文を出せるほどに応用が利く。

その論文を理解できればそれを基礎として応用できるわけだ。

自分で解くことも大事かも知れないが、高次元においても模倣は必須である。

ただ、「応用」とは理系分野に置いてしかほとんど通用しないが。



すいませんねB型で。

言いたいことは多いのに、口べただから理解してくれないんです。

あくまで自己満と課程の記録ですから、他人の同意は必要としません。

高みへ向かうには、否定する立場の意見を理解することが大事です。
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by arashimata | 2008-08-01 18:17 | 俺用メモ

欠点

最近思うんですよ。

自分の性格上の欠点を正確に把握できていない人間は、性格に操られる、と。

自己の感情を制御できないというのは、まさにこれだと思うんです。

感極まって泣くとかいうのはどうでもいいんですが、問題は「キレる」ことです。

昨今の日本人は短気になってきている傾向があるのは、肌で感じられます。

自分が何に興味があって、どこでこだわっているかを、感覚としてではなく、

意識として、事が起こる前に把握しておくべきなのです。

ストレスや衝動をうまいぐあいに誘導し、自己の「性格」の欲求の下僕ではなく、

将来の自分が過去を見たときに、哀れだと感じさせない行動をとらせる。

「欠点」をうまく操作することで人柄が変わってくる。

性格に操られた人は、自分の欠点に気付いていない。

自己の欲求に正直な人は他人から見れば、どう見ても欠点となるのだが、

それは自己からは見えないのである。

自分の場合、性格を客観視しようとしたが故に、自分の生まれ持った性格は捨てた。

性格は捨てたが、そのかわりに個性を育てた。

自分の捨てた「性格」には、人間的本能をも含んでいたのであって、

無意識のうちに引き起こす人間の心理行動を観察し、それと逆行しようとする箇所もある。

たとえば、群集心理などを人間の持つ欠点だと解釈し、それを意識下で操作しようと考えた。

結果、現在では「連れション」や、トレンドに流され、流行に乗せられる現代の若者を卑下し、

単一色、シンプルな構造のもの、デザインより実用性のあるものを好むようになったが、

ファッションに心を奪われた人々を哀れみの目で見ることとなった。

これもまた、「欠点」であり、欠点を補おうとした副作用だ。

自分は、これを表面に出さないこと、自分から彼らに絡まないことでこの問題を回避しているが、

またどこかで何かに影響するかも知れない。

そのときにはまた対策を講じなければならないが。
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by arashimata | 2008-07-21 23:05 | 俺用メモ

年齢

大人と子どもの境って何ですかね。

成人を区切りとする場合が多いですが、

どこぞではその成人年齢を引き下げようとかいう案が出てるんですね。

戸籍は成人でも、心は未成年ってことですね、わかります。

あ、今日はその話題じゃないんですが、

リアル工房真っ盛りのおいらは、

先に待ち受ける大人の世界と、過ぎ去った子どもの世界の中途半端な位置にあるんです。

子どもの頃って、よく大人が冷酷に見えたものですよね。

地面に落ちてるあれを触ってみたいのに、手を引かれて指をくわえながら通り過ぎたり、

喜ばせようと思ってやってみたら叱りとばされたりと、とりあえず理不尽です。

いずれの大人にも幼少期というのは必ずあるはずなのに、

子どもの気持ちは全然理解できていないという事実。

子どもは純心で、言われたことは全て真実で、疑うことを知りません。

もちろん、彼らの脳内には例外など存在しません。

その例外無き法則の中で思考を巡らせて、行動を制御します。

例外は大人にとっては前提でも、子どもには知らされていない場合が多いのです。

大人はそのことも覚えていないのです。

何か悪いことをして大人に叱責されても、なぜなのかがわからない。

次第にその規則性を感じ、いずれ「前提」として体に染みつく。

こどもに、この世の前提を教えなければいけません。

知らないはずの法則を適用できるほど子どもの頭は賢くはありません。

しかし、今現在知っている知識で理解できることは大抵覚えられます。

大人は子どもの脳の使い方を知らないのです。

必要なのは英才教育ではありません。

必要なのは世の中を自分の力で知ることなのです。

おとなは、知ろうとするこどもを補助することが必要なのです。

こどもは、なるたけ多くの権利を与えられる事を求め、

教養ある人間を育てるには、早いうちから世界がどのようなものかを知らせるべきだと思うんです。

どんな英才教育も、教養の上になくてはその実用性は低くなります。

実生活で利用できない学力とは、門をくぐるための道具以外の何でもありません。

おとなは、何かを間違えています。

こどもは、扱いを間違えられています。

しかし、こどもは何が何なのかわかりません。

ただ、自分の欲望がおとなによって遮断され続けるだけです。

お願いです。こどもの心を読んでください。

その心には、何も書かれていない白紙のノートが一冊あるだけです。
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by arashimata | 2008-07-10 21:12 | 俺用メモ

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